ラムネのじゆうちょう

仕事に行かず自由に日々を過ごしたい筆者のラムネが日々の中で思うこと、何かをした感想を書くブログ。

生き残ることと失うもの

 

 4月からの生活ももう2週間が経とうとしている。桜もあっという間に新緑に変わったと思えば、夏日の連続。春のために奮発して買った高めのカーディガンが日の目を見ずにクローゼット行きになりそうだ。春よ戻ってこい。

 一方、僕の職場でも慌ただしくなってきている。職場によっては、この時期から熾烈な生存競争が水面下で繰り広げられているのではないかと想像する。人が変わると組織も変わる。その表面的には大胆な、かつ、心理的には繊細な組織の変化に上手く乗れる人はスタートダッシュを決めれるのかもしれない。

 

 さて、今日は生き残ることと失うもの、について話そうと思う。

 人間何かの生き物を食べたり、家族や学校の先生、社会の言うことをほとんどは守りながら生きていると思う。それらに反発すると、場合によっては、それらから自分へ避難や批判がやってくるからだ。そういう意味では、生き残らざるを得なかったというところもあるだろう。

 また、自分の意思は家族や社会以外のところでも持っていると思う。それもその人が生き残ってきた方法なのだ。そして、その方法は千差万別である。

 

 具体的な例を挙げてみよう。

 

 aさんは、自分の意見を曲げず、家族や学校の先生の反対を押し切って、研究者になり、ある分野で有名な本を書いて成功した。aさんがその本を書こうと思った理由は、その本を書いて、自分の意見を曲げず諦めなければ願いは叶うということを証明したかったからだ。

 しかし、その数年後、bさんがaさんと同じ分野でaさんとは真反対の本がaさんの本と同じくらい有名になった。

 bさんは家族や色んな人の意見を素直に聞いて生きてきて、研究者になった。この本を書いて、他の人の意見を聞いてそれを実行することで願いは叶うことを証明したいと思い本を出した。

 aさんはbさんの本を素直に認めることはできなかった。なぜなら、aさんはbさんの本を読むと自分の生き方を否定されているような気持ちになったからだ。

 対するbさんも、aさんの本を読むと凹んでいる。なぜなら、bさんはaさんの本を読むと自分の生き方を否定されているような気持ちになったからだ。

 

…かなり極端な例である。

 

 いやいや、ラムネよぉ、bさんとaさんの仲によっては、aさんがbさんの意見を受け入れる可能性だってあるでしょうが。bさんも周りと協調するんだったら、aさんの言うことも聞いとるでしょ?と。

 他にも反論あると思うが、僕がどんなことをこの例え話で言いたかったかをこれから説明する。

 

 さっきの反論を横に置いて、この文章を読むとaさんとbさんの意見が真反対、ひいては生き方も真反対だと言うことが分かってくれると思う。そして、お互いがお互いに受け入れられない。

 

 僕が言いたかったことは、人には自分が生き残るためのパターンがあって、その真反対のパターンを使っている人をなかなか受け入れられない、ということだ。

 aさんは自分の意志の強さで生き残ってきた分、周りの人と合わせるのは難しい人のように思う。

一方で、bさんは周りに合わせることで生き残ってきた分、周りの人の言いなりで自分の意見を伝えるのは難しいように思う。

 

これは、aさんとbさんの生き残り方が真反対で、生き残るために失った部分をお互いがお互いに見ているのである。

 

 さて、話を例の前に戻そう。

現実でもaさんやbさんのやりとりは起こっているのではないか。そして、aさんbさんよりも話は複雑である。自分が失った、できない、もしくは苦手な部分を認めることは本当に難しい。自分が押し殺してきたことなら、なおさらそうである。それを殺さずに受け入れると、少し生きやすくなるのだ。

 

自分がどうしてもイライラする人や物事には、理屈では割り切れないところが人によってはある。それを考えるヒントの一つとして、失われた自分を考えても面白いなと僕は思う。

 僕の中にすむ悪いやつ、夢の中に出てくる嫌なやつ、それはもしかすると生きられなかった自分がここにいるよ、と呼ぶためにそこにすんだり夢の中に出てくるのかもしれない。

 

 このことを書いて、自分の心の中にすむ嫌なやつの気持ちを少し理解できたような気がした著者なのであった。