他人との比較
早くに梅雨が明け、真夏の季節がやってきた。
暑すぎて素麺が美味しくなる季節になってきた。
冒頭のネタもも出てこない。これは暑さのせいだろう…いや、単純にネタ切れである。
ということで、本題に入ろう。
今日は他人と比較することについて考えてみようと思う。
他人と比較する、ということは他人と比べたときに自分の現在位置がどのあたりかを確認する、という意味ではメリットがある。
比較することで自分が今、どのくらいの位置にいるかがわかり、他の人の状況を知ることで、自分の位置をどう変えていくのかが分かるヒントになることがある。
テストなどは例としてわかりやすい。例えば、自分が50位中の25位にいたとして、20位の人の勉強量が自分より1時間多いことがわかるとすれば、1時間多く勉強すれば順位が上がりやすいことが分かる、といったように。
これはあまりにも単純化されているが、比較することのメリットはわかったように思う。
一方で、他人と比較できないと自分がどの位置にいるかはわからない。さっきの例でいえば、
相手の勉強時間はどのくらいか、さらには自分の順位は何位かすら分からないのである。
また、他者の比較ができないと集団行動が取れなかったりする。
これを見てくれている人たちは周りを見ずに自分だけ違う行動をしてしまったりすることはなかっただろうか。
発達障害の子どもたちはそういった行動をとってしまうことが多かったりする。
彼らの場合、人や場面によってその有無や強弱は変わるかが、自分がそうしたい、したくないに関わらず、そういう一人だけ違う行動をとってしまうために生きにくい人が多い。自分では集団と合わせているつもりなのに集団となぜか合わない、ということがあると、そりゃ生きにくいよなぁ、と僕は思っている。
また違った角度から比較について話をしてみる。
縄文時代の人は食料は狩ってきた人たちだけがご飯を食べるのではなく、狩れなかった人に対しても関係なく、みんなに分け与えて暮らしていた、と『はじめての考古学』(ちくまプリマー新書)という本に書かれてあった。
特にリーダーがいるという社会システムでもなかったようだ。分け与えることが当たり前だったのだ。つまり比較のしようもなかった。
また、その本には、弥生時代になると、稲作が各地域に普及し、人口も増加した。それにより、地域によっては食糧が賄えなくなったことから、戦争が始まったと言われている。
稲作によって地域の豊かさが目に見えて分かるようになったことも関係するようだ。
弥生時代から地域との比較が始まったのだ。つまり、羨ましいという気持ちも弥生時代から始まったのではないかと思えるほどだ。
ちなみに、縄文時代や弥生時代の話は日本のことだけでなく、世界全体がその時代にそういった動きがあったようだ。
話を戻そう。他人と比較をすることで、イライラや落ち込むことにつながるデメリットがある。
他人と比較し、自分の現在位置が自分が思っているよりも低かったり、相手の現在位置が高かったりするとそれに羨ましさを覚えてイライラしたり、落ち込んだりする。これはテストの例を思い浮かべてもらうとわかってもらえるように思う。この点数しか取れなかった…なんでこんなに俺は頑張ってるのにあいつはあれだけ取れてるんだ…などなど、考えれるように思う。
弥生時代の人たちも隣の稲は多くて良いな…という感情はあったのかもしれない。
他にもメリット、デメリットはあるように思うので、考えがあったらコメント等で教えてください🙇♂️
そんなことを考えつつ、久しぶりにFacebookを開き、学生時代の友達の近況を見て、あんまり比較しないほうが良いな、と思いながらそっとFacebookを閉じた調子の良い著者なのでありました…