ラムネのじゆうちょう

仕事に行かず自由に日々を過ごしたい筆者のラムネが日々の中で思うこと、何かをした感想を書くブログ。

昔の普通と今の理想

 11月になり、少し肌寒くなってきた。

 暖かいものが美味しい季節になってきた。寒いから暖かいのが美味しいのはふつうのことかもしれないが、そうは分かっていても美味しさは違ってくるのだ。

 

 今回は「ふつう」について考えたいと思う。

 

 日本人の多くの人はよく、「ふつう」という言葉をよく使う。そして、「ふつう」という言葉はなかなか厄介なものなのである。

 なぜ、「ふつう」が厄介かと言うと、「ふつう」というのを会話で使用する時、その「ふつう」と言っている範囲が明示されていないことが多いからである。学校の「ふつう」、家での「ふつう」、日本人の「ふつう」などなど、範囲によって「ふつう」の角度が異なるけれど、それにだいたいの人は気づかない、もしくは分かっていても言葉が見つからずに使ってしまうことが多い。

 また、「ふつう」には多数派のイメージも出やすく、集団的な圧を感じることもあり、ネガティブなものに囚われなくていいのにも関わらず、周りに合っていない自分に対してネガティブなものに囚われてしまうこともある。

 ただ、言葉の利便性として「ふつう」はとても便利なのだ。「ふつう」という言葉には個人やその「ふつう」を使う範囲の経験則が入ってくることが多く、説得力が強い印象を与えてしまうことが多いように思い、ついつい印象に押されて結局何が「ふつう」なのか見逃してしまいがちになるのだ。

 

 そして、ここからが本題だ。

 クレヨンしんちゃんが放送されていた時代、野原家は「ふつう」の家族だった。ただ、今では理想の家族だ、と言われている。

 僕が思うクレヨンしんちゃんは野原家という「ふつう」の家族の一コマを描いた日常系のアニメ(漫画)だった。野原家のイメージが核家族のイメージと思っている人はティーンエイジャー以外の人だと多いのではないかと思う。夫婦と子どもとペットがいて、一軒家がある。父はサラリーマンで、母は専業主婦という経済事情の家だ。

 ただ、総務省が発表した令和2年の国勢調査の結果によると、そもそも夫婦と子どもが同じ屋根の下に住んでいる核家族の構成が全世帯の25%しか占めていない。4世帯に1世帯がその世帯構成になっている。今、全世帯の中で1番多いのが単身世帯なのである。少子高齢社会の日本で、高齢者の単身世帯の割合が多くなったことによることが多いが、割合で見ると少なく感じる。

 日本人の平均年収もクレヨンしんちゃんが放送された90年代前半と比べると、30〜40万ほど下がってきている。

 それに加えて、厚生労働省の令和2年版 厚生労働白書によると、共働きの世帯も1989年には約42%だったのが、2019年には66%にまでなっている。

 

 これらのことから、野原家という当時では「ふつう」の家族が、もはや「ふつう」の家族ではなく理想の家族だということができるのではないだろうか。

 ただ、野原家が「ふつう」の家族だとイメージとして刷り込まれているので、今は理想の家族とは分かりつつも、昔の「ふつう」に憧れを抱きそのイメージが今も捨てきれない人も多いのではなかろうか。「ふつう」はその言葉が使われている範囲や時代によって変わるが、それぞれの人の心はその範囲や時代に追いつけているかどうか分からない。そこが「ふつう」から外れる辛さの原因の一つになっているのかもしれない。

 

 「ふつう」は周りと一緒であるという安心感もあるが、ともすると「ふつう」でなかった場合に排他的な意味も含んでいることがあると思う。今の時代は、昔の「ふつう」の感覚よりも、「ふつう」という言葉に囚われず、「ふつう」の呪縛から解かれる必要もあるかもしれない。自分はこれでいいと自分のサイズに合った生活を獲得する方が社会にとっては分からないが、自分にとっては理想的で幸せなことかもしれない。

 

 と言いつつ、ブランド物の服を見て、これ欲しいなぁ…と思いながら買えない著者なのでありました…

 

ご飯と心

 

 定期的に更新していくつもりがもう秋になっていた。暑い日々から一転、涼しい季節になってきた。

 今日は、食欲の秋、と関連づけて食事と心の話をしようと思う。

 

 ご飯と心の関係は、とても影響がある。

 ご飯を食べる、という行為は生きていくために必要なことだし、食事を摂ることは心身のバランスを支えるベースの部分で重要だ。

 ご飯を食べないだけでも、人はイライラしたり落ち込みがちになる。逆に、ご飯を食べれば、ストレスが解消されることもある。なんだかイライラ、もしくは落ち込みがあるなと思ったらご飯を食べてないからということもあるということを頭に入れておいても良いかもしれない。

 

 また、精神障害の一つとして、摂食障害がある。摂食障害は簡単にいうと、食べ過ぎもしくは食べなさすぎ、が極端になり日常生活に支障をきたす障害だ(かなりざっくり言っているので、摂食障害の正確な内容は本などでお調べください。)食べることに翻弄されている人たちといえるかもしれない。例えば、

 

・食べ過ぎで言うと、ストレスを食べることで溜め込んでいる

・食べなさすぎで言うと、ストレスに耐えられず拒絶しているので、食べられない

 

ということが食べ過ぎor食べなさすぎの背後にある理由の一つになるのかもしれない。摂食障害は要因も様々で、ここに挙げたのはほんの一例に過ぎないことを覚えてもらいたい。

 

 ご飯と心の関係についてはある程度わかっていただけたと思う。でも、これだけではない。食事や料理を通じて私たちはコミュニケーションを取っている。料理研究家である土井善晴先生は『一汁一菜でよいという提案』という本の中で、作り手と食べる人との情報のやり取りを家庭料理、コンビニ食、チェーン店、高級レストラン・料亭などパターンを分けて表で示している。

 一部を紹介すると、コンビニ食は食べる人にとってご飯を何にしようか選ぶ楽しみはあるが、作り手の姿は見えず、一方的である。他の3つは作り手が見え、チェーン店であっても少なくとも支払いなどの、作り手と食べる人のやり取りがある。高級レストランになると、食べる人の好き嫌いやアレルギーなども把握するお店も多く、シェフ(作り手)個人の心配りが見え、食べるひとの会話も弾んだりする。家庭料理では、作り手の知識や経験、思いが料理というものに込められる。そして、食べる人が美味しいと話し、コミュニケーションが取れたり、毎日食事がある安心感や、家でのご飯での思い出ができる。

 

 実は、家でのご飯を介した気持ちのやりとりは気づかないところで行われている。食べる人のベースを支えてくれているのだ。

 

 誰か身近な人がお弁当を作ってくれて食べる人にお弁当箱を渡す、食べる人はそれを食べて作った人に返す。このようなことや食べることはずっと日常的にあることが当たり前のことなので、食べる人は気づきにくいかもしれないが、作る人が知らず知らずのうちに自分の心身のベースを支えてくれているのだ。

 一人暮らしをした時や作り手が変わる、いなくなった時にその人のご飯や顔や思い出がふっと目に浮かぶ。そんな時に、その人に対する感謝が自然と出てくる。

 

 ご飯自体も、ご飯を通した会話も心に影響してくる。人間の生活の基本は、衣食住というが、これまでのことを考えると食については頷ける。作り手がいるご飯は美味しいのだ。

 今回は作り手と食べる人の関係に焦点を当てることが多かったが、料理すること自体も経験になるし、料理が上手く作れると自分の自信にもつながる。

 

 読者の方々もこれを見て、美味しくご飯を食べてくれていたら嬉しい。

 

 そう願いながら、長年料理をしてくれた母に感謝しつつ、自分で作った味噌汁を飲んでほっこりする著者なのでありました…

 

僕の中のカウンセリングのイメージ

 

 7月も終わりに近づいてきた。夏休みの季節がやってきた。と言いながら、全然季節柄と関係ない話をする。

 まずこの話を聞いてほしい。

 

 子どもが自転車にかっこよく乗れるようになりたい、と言う。補助輪をつけるかい、と親が聞くとかっこわるいから嫌だと子どもは言う。

 でも、うまく乗れず、傷だらけになるのを見かねて、転けたら痛いから、補助輪つけようと子どもに伝える。子どももうんと言って、補助輪を入れる。

 補助輪を入れると、自転車にこけることも少なくなり徐々に自転車に乗る感覚を掴めるようになり、

 次は補助輪を外して乗ってみるかと伝えると、子どもはこけて痛いから外すのは嫌だと言う。親は、補助輪を外して乗ったらかっこいいんじゃない?と伝える。不安だけど頑張ってみようと子どもは言う。

 その後、どこかのタイミングで子どもは転けてやっぱり痛いから嫌だと言う。親は最初全然乗れなかった時よりもよくできてるよ、と伝える。子どもはその言葉に勇気づけられ、補助輪なしで自転車に乗れるようになった。

 

 子どもの自転車に乗る挑戦を親子で頑張る話である。

 話は変わって、僕はカウンセリングの説明をするといつもしっくりこないことが多かったが、今日ふと、このことを想像していて気がついた。

 カウンセリングは子どもに自転車に初めて乗るのを見守るのと似ているな、と。

 

 というのは、カウンセリングは補助輪のようなものだと僕はイメージしている。その人の生きづらい部分を支えるものの1つとしてカウンセリングがある。しかし、この子どものように支えることが恥ずかしさや拒否感を感じたり、最初、自転車にかっこよく乗れるようになりたいと思っていたことを忘れていることもあるように思う。

 カウンセラーは例え話の親のように調子の良いときも悪いときもその人を少しの時間ではあるが、話をして大丈夫かなと見守りながら、タイミングを見てその人にできているところや向き合う部分を伝えたり、本人がどう考えるのか待っていたりする。

 

 「何もしないことが本当に難しい」と心理臨床家の故河合隼雄先生は講演や著書で何度も話し記述している。「何もしない」ということは、相手に何もせず放っておくことではなく、その人の邪魔をせずに関わっていくというものだ。最初の例え話もその関わりに近い(もっと良い関わりがあるかもしれないが)。

 なかなか、最初の例え話にはいかないが、この「何もしない」関わりを目指していきたいと思う。

 

 そんなことを考えながら、夏休みの課題に追われる著者なのでありました…

他人との比較

 

 早くに梅雨が明け、真夏の季節がやってきた。

 暑すぎて素麺が美味しくなる季節になってきた。

 冒頭のネタもも出てこない。これは暑さのせいだろう…いや、単純にネタ切れである。

ということで、本題に入ろう。

 

 今日は他人と比較することについて考えてみようと思う。

 

 他人と比較する、ということは他人と比べたときに自分の現在位置がどのあたりかを確認する、という意味ではメリットがある。

比較することで自分が今、どのくらいの位置にいるかがわかり、他の人の状況を知ることで、自分の位置をどう変えていくのかが分かるヒントになることがある。

 テストなどは例としてわかりやすい。例えば、自分が50位中の25位にいたとして、20位の人の勉強量が自分より1時間多いことがわかるとすれば、1時間多く勉強すれば順位が上がりやすいことが分かる、といったように。

これはあまりにも単純化されているが、比較することのメリットはわかったように思う。

 一方で、他人と比較できないと自分がどの位置にいるかはわからない。さっきの例でいえば、

相手の勉強時間はどのくらいか、さらには自分の順位は何位かすら分からないのである。

 また、他者の比較ができないと集団行動が取れなかったりする。

 これを見てくれている人たちは周りを見ずに自分だけ違う行動をしてしまったりすることはなかっただろうか。

 発達障害の子どもたちはそういった行動をとってしまうことが多かったりする。

彼らの場合、人や場面によってその有無や強弱は変わるかが、自分がそうしたい、したくないに関わらず、そういう一人だけ違う行動をとってしまうために生きにくい人が多い。自分では集団と合わせているつもりなのに集団となぜか合わない、ということがあると、そりゃ生きにくいよなぁ、と僕は思っている。

 

 また違った角度から比較について話をしてみる。

 縄文時代の人は食料は狩ってきた人たちだけがご飯を食べるのではなく、狩れなかった人に対しても関係なく、みんなに分け与えて暮らしていた、と『はじめての考古学』(ちくまプリマー新書)という本に書かれてあった。

 特にリーダーがいるという社会システムでもなかったようだ。分け与えることが当たり前だったのだ。つまり比較のしようもなかった。

 また、その本には、弥生時代になると、稲作が各地域に普及し、人口も増加した。それにより、地域によっては食糧が賄えなくなったことから、戦争が始まったと言われている。

 稲作によって地域の豊かさが目に見えて分かるようになったことも関係するようだ。

 弥生時代から地域との比較が始まったのだ。つまり、羨ましいという気持ちも弥生時代から始まったのではないかと思えるほどだ。

 ちなみに、縄文時代弥生時代の話は日本のことだけでなく、世界全体がその時代にそういった動きがあったようだ。

 

 

 話を戻そう。他人と比較をすることで、イライラや落ち込むことにつながるデメリットがある。

他人と比較し、自分の現在位置が自分が思っているよりも低かったり、相手の現在位置が高かったりするとそれに羨ましさを覚えてイライラしたり、落ち込んだりする。これはテストの例を思い浮かべてもらうとわかってもらえるように思う。この点数しか取れなかった…なんでこんなに俺は頑張ってるのにあいつはあれだけ取れてるんだ…などなど、考えれるように思う。

 弥生時代の人たちも隣の稲は多くて良いな…という感情はあったのかもしれない。

 

 他にもメリット、デメリットはあるように思うので、考えがあったらコメント等で教えてください🙇‍♂️

 

 そんなことを考えつつ、久しぶりにFacebookを開き、学生時代の友達の近況を見て、あんまり比較しないほうが良いな、と思いながらそっとFacebookを閉じた調子の良い著者なのでありました…

梅雨とストレス

 

 もうすぐ、7月になり蒸し暑くなってきた。梅雨に突入にしつつも、雨のち晴れてまた雨と不安定な天気が続いている。梅雨の時期は夏休みまで長いので、天気じゃなく心身共に疲弊して不安定になる時期だと思う。

 

 今回は、時節とストレスは関係するのか、というテーマで話そうと思う。

 

 というのも、例えば梅雨である今の時期には心身の体調不良を多い気がするし、過去、この時期になるとそれぞれ悩みやしんどい話をよく聞くので、心身の調子が悪くなる人が多い気が僕にはしていた。

 それは、単に疲弊している人の話を自分が選んで拾い上げている(確証バイアス)ということもあるが、どうもそうでもなさそうな気もする…と。

 

 そこで、今、梅雨と体調不良の記事を調べてみると、こんな記事が出てきた。

 

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000045215.html

 

 この記事には梅雨の体調不良が3人に1人はいるという記事が出てきた。20代〜50代の男女100人を対象にした調査らしい。

 梅雨というと雲が多くなるので、偏頭痛持ちの人達には嫌な季節である。頭痛が体調不良のダントツの1位で、その後に倦怠感や疲れ、寝不足、イライラと続く。

 男性では40代が、女性では50代が体調不良を感じる人が多かった。

 20代男性では寝不足が、30代女性ではイライラが最も多い。

 20代女性でも3割程度、梅雨の時期に体調不良を感じてるようだ。

 

 それぞれの世代が何人ずついたのか分からないし、職業などにもよると思うが、個人の感想よりは客観的なデータだと思う。

 

 やはり、梅雨の時期というのは心身の体調不良が起こりやすい季節のようだ。以前の心身一如の話をすれば、社会的にストレスも溜まりやすくなるのだろう。

 これだけ多くの人に心身の乱れが起こると、個人のトラブルが募り、対人トラブルにも発展してくることも多くなる。こんなことを想像していると、なんか真実味が増してくる。

 

 そして、ここからは個人の感想だが、ストレスになり、そういう時期にイライラや疲労感があると自分の課題や苦手なところが浮き彫りになりやすい。

 例えば、現実逃避したり、寝不足や過眠、昔の黒歴史、将来への漠然とした不安、自信のなさ、トラウマなどが蘇る時が多いような気がするのだ。

 これは、梅雨という時期、世情、職場・学校環境、家族関係、個人の性格、ストレス対処方法の多さなど、色んなところの絡み合わせでしんどさの重さ軽さは変わってくるので、個人によるのだが、僕の少ない経験での推測だが、僕としては確信に近いと思っている。

 

 ストレスのかかりやすい時節というものは梅雨以外にも存在すると僕は思っている。

 この話では、梅雨という時期だけの話だったが、夏休み明けなど学校や職場、家族によってストレス負荷のかかる時期というのは個々によってあるのではないかと。

 

 それに早くに気づいて意識するだけでも少しの耐性はつきやすい。対処する方法を探すとさらに耐性は上がる。

 

 読者の人も少し耐性がつくかもしれないので、色々なレベルで考えてみてほしい。きっと個人それぞれで時節があるように感じられるだろう。それを他の人と共有するのも面白いかもしれない。

 

 そんなことを読者投げかけつつ、去年よりも耐性がつき、同じ状況だと少し楽に出来てるなと思いつつも、違う状況が起こるので、やはり6月はなかなか楽にいかないなと感じる著者なのでありました。

 

 

 

 

謎のハードル上げ

 

あっという間にGWが終わって、書こう、書こうとしていたら、こんなに時間が経ってしまっていた。

もうすぐ6月である。前回書いてから1ヶ月も経ってしまった。

 

下書きは書いていたが、なかなかうまくまとまらず、

いや、こういうのじゃないんだよなー、こう書いた方がいいかな

など、自分の思いがまとまらなかった。

そして、何より書くことをやめていた理由は

 

書くことに勝手にハードルを上げていた

 

からだ。

 

別に誰がみるってわけじゃない体で始まったこのブログも

月に100pv見てもらう時もあり、これまでで合計300pv見てもらい、

(ありがとうございます🙏 今後とも見てやってください🙇‍♂️)

もっと熱意を持ってやろう、などと当初の目的をすぐに見失ってしまったからだ。

 

僕は、GWも遊びに全力だったし、現在も忙しいことは確かだ。

でも、いつも間にか、僕は誰かが見ることを意識して熱心に書いていたように思う。

勝手に例え話を編み出そうと考えたり、テーマはこっちの方が他の人に役立つか、と考えていたように。

 

完璧主義というか、職人気質というか、こだわり出すと自分で勝手にハードルを上げてしまうことが

僕はよくある。ポジティブには向上心がある、と表現するかもしれない。

以前の自分よりも今の自分を良くしていこうとする姿勢自体は良いが、

それに囚われてしまい、本来の意味を失うことは良くないことだ。

他の方も僕の失敗を見て気づいていただければ幸いである。

 

木を見て森を見ず、というように細部を気にすると全体が見えなくなる。

人物の顔を描くときに、例えば耳だけ意識して描いたとしたら耳が浮いてしまう

そんな感じである。耳だけ優秀なのである。

 

本来は自分の心のままに描くのが、ここでの目的だった。

そういう意味ではこの1ヶ月は心のままに描かなかったということかもしれない。

しかし、それは相手を意識してそれに応えようとするという、謎な頑張りを見せていたためなのだ。

それをして続かなかったことも書いていたのに…

 

また同じことがあったとしても、勝手にハードルを上げずに

これにこりず楽に書いていくぞと久々に自分の思いを書いた著者なのでありました。

生き残ることと失うもの

 

 4月からの生活ももう2週間が経とうとしている。桜もあっという間に新緑に変わったと思えば、夏日の連続。春のために奮発して買った高めのカーディガンが日の目を見ずにクローゼット行きになりそうだ。春よ戻ってこい。

 一方、僕の職場でも慌ただしくなってきている。職場によっては、この時期から熾烈な生存競争が水面下で繰り広げられているのではないかと想像する。人が変わると組織も変わる。その表面的には大胆な、かつ、心理的には繊細な組織の変化に上手く乗れる人はスタートダッシュを決めれるのかもしれない。

 

 さて、今日は生き残ることと失うもの、について話そうと思う。

 人間何かの生き物を食べたり、家族や学校の先生、社会の言うことをほとんどは守りながら生きていると思う。それらに反発すると、場合によっては、それらから自分へ避難や批判がやってくるからだ。そういう意味では、生き残らざるを得なかったというところもあるだろう。

 また、自分の意思は家族や社会以外のところでも持っていると思う。それもその人が生き残ってきた方法なのだ。そして、その方法は千差万別である。

 

 具体的な例を挙げてみよう。

 

 aさんは、自分の意見を曲げず、家族や学校の先生の反対を押し切って、研究者になり、ある分野で有名な本を書いて成功した。aさんがその本を書こうと思った理由は、その本を書いて、自分の意見を曲げず諦めなければ願いは叶うということを証明したかったからだ。

 しかし、その数年後、bさんがaさんと同じ分野でaさんとは真反対の本がaさんの本と同じくらい有名になった。

 bさんは家族や色んな人の意見を素直に聞いて生きてきて、研究者になった。この本を書いて、他の人の意見を聞いてそれを実行することで願いは叶うことを証明したいと思い本を出した。

 aさんはbさんの本を素直に認めることはできなかった。なぜなら、aさんはbさんの本を読むと自分の生き方を否定されているような気持ちになったからだ。

 対するbさんも、aさんの本を読むと凹んでいる。なぜなら、bさんはaさんの本を読むと自分の生き方を否定されているような気持ちになったからだ。

 

…かなり極端な例である。

 

 いやいや、ラムネよぉ、bさんとaさんの仲によっては、aさんがbさんの意見を受け入れる可能性だってあるでしょうが。bさんも周りと協調するんだったら、aさんの言うことも聞いとるでしょ?と。

 他にも反論あると思うが、僕がどんなことをこの例え話で言いたかったかをこれから説明する。

 

 さっきの反論を横に置いて、この文章を読むとaさんとbさんの意見が真反対、ひいては生き方も真反対だと言うことが分かってくれると思う。そして、お互いがお互いに受け入れられない。

 

 僕が言いたかったことは、人には自分が生き残るためのパターンがあって、その真反対のパターンを使っている人をなかなか受け入れられない、ということだ。

 aさんは自分の意志の強さで生き残ってきた分、周りの人と合わせるのは難しい人のように思う。

一方で、bさんは周りに合わせることで生き残ってきた分、周りの人の言いなりで自分の意見を伝えるのは難しいように思う。

 

これは、aさんとbさんの生き残り方が真反対で、生き残るために失った部分をお互いがお互いに見ているのである。

 

 さて、話を例の前に戻そう。

現実でもaさんやbさんのやりとりは起こっているのではないか。そして、aさんbさんよりも話は複雑である。自分が失った、できない、もしくは苦手な部分を認めることは本当に難しい。自分が押し殺してきたことなら、なおさらそうである。それを殺さずに受け入れると、少し生きやすくなるのだ。

 

自分がどうしてもイライラする人や物事には、理屈では割り切れないところが人によってはある。それを考えるヒントの一つとして、失われた自分を考えても面白いなと僕は思う。

 僕の中にすむ悪いやつ、夢の中に出てくる嫌なやつ、それはもしかすると生きられなかった自分がここにいるよ、と呼ぶためにそこにすんだり夢の中に出てくるのかもしれない。

 

 このことを書いて、自分の心の中にすむ嫌なやつの気持ちを少し理解できたような気がした著者なのであった。