僕の中のカウンセリングのイメージ
7月も終わりに近づいてきた。夏休みの季節がやってきた。と言いながら、全然季節柄と関係ない話をする。
まずこの話を聞いてほしい。
子どもが自転車にかっこよく乗れるようになりたい、と言う。補助輪をつけるかい、と親が聞くとかっこわるいから嫌だと子どもは言う。
でも、うまく乗れず、傷だらけになるのを見かねて、転けたら痛いから、補助輪つけようと子どもに伝える。子どももうんと言って、補助輪を入れる。
補助輪を入れると、自転車にこけることも少なくなり徐々に自転車に乗る感覚を掴めるようになり、
次は補助輪を外して乗ってみるかと伝えると、子どもはこけて痛いから外すのは嫌だと言う。親は、補助輪を外して乗ったらかっこいいんじゃない?と伝える。不安だけど頑張ってみようと子どもは言う。
その後、どこかのタイミングで子どもは転けてやっぱり痛いから嫌だと言う。親は最初全然乗れなかった時よりもよくできてるよ、と伝える。子どもはその言葉に勇気づけられ、補助輪なしで自転車に乗れるようになった。
子どもの自転車に乗る挑戦を親子で頑張る話である。
話は変わって、僕はカウンセリングの説明をするといつもしっくりこないことが多かったが、今日ふと、このことを想像していて気がついた。
カウンセリングは子どもに自転車に初めて乗るのを見守るのと似ているな、と。
というのは、カウンセリングは補助輪のようなものだと僕はイメージしている。その人の生きづらい部分を支えるものの1つとしてカウンセリングがある。しかし、この子どものように支えることが恥ずかしさや拒否感を感じたり、最初、自転車にかっこよく乗れるようになりたいと思っていたことを忘れていることもあるように思う。
カウンセラーは例え話の親のように調子の良いときも悪いときもその人を少しの時間ではあるが、話をして大丈夫かなと見守りながら、タイミングを見てその人にできているところや向き合う部分を伝えたり、本人がどう考えるのか待っていたりする。
「何もしないことが本当に難しい」と心理臨床家の故河合隼雄先生は講演や著書で何度も話し記述している。「何もしない」ということは、相手に何もせず放っておくことではなく、その人の邪魔をせずに関わっていくというものだ。最初の例え話もその関わりに近い(もっと良い関わりがあるかもしれないが)。
なかなか、最初の例え話にはいかないが、この「何もしない」関わりを目指していきたいと思う。
そんなことを考えながら、夏休みの課題に追われる著者なのでありました…