自分の中の他人を知る
先週、このブログを更新しようと思ったがするのをやめた。
理由はシンプル、精神的に不安定だったからだ。
無性に仕事に行きたくなくなり、急きょ半日休みを取ったこともあった。
対人援助職ではよくバーンアウト(燃え尽き症候群)が起こりやすいと言われている。僕の場合はプチ燃え尽き(これは本来のバーンアウトと違う意味だと思うが…)が度々ある。人のことを考えすぎてしまうと、仕事に行くことも嫌になるのだ。
こういう時に自分では行かなきゃと思っているのに、まるで自分の意志と真反対の考えが思い浮かんだり、身体が動かなくなったりすることがある。今日はその話をしたいと思う。
ちょっと話を変えると、解離性同一性障害という精神障害がある。わかりやすく言うと多重人格、と呼ばれる障害だ。
この障害は一人の人間の中にある1つの人格が1つに収まらず、複数あり、普段の人格から違う人格が突如として現れるような現象のことである。また普段の人格は他の人格を知らなかったり、意識できなかったりする、というような障害だ。(だったと思う…正確な内容については、本などでお調べ下さい)
この説明の方がわかりやすいのでこう説明しているが、個人的には、人間の中には複数の人格を既に持っている。自分ではないと思っている自分も自分の中に存在しているのだ。つまり、自分の中にも他人がいて、それは自分の意識を離れて一人でに動き出すこともある、ということだ。
他人の中でも、嫌な奴がいる。それは人ではなく、生き物の場合もあるかもしれない。そんな意識している中でも、嫌な奴というのが自分の中に存在しているのだ。
ビジュアルで言うと、藤原カムイ著の漫画、ドラゴンクエストⅦエデンの戦士たち、出てくる主人公アルスの修行シーンで出てくる別人格や、宮部みゆき著の小説・映画、ブレイブストーリーの主人公が戦った影の主人公などが分かりやすい例だろう。
さて、話に戻ろう。人のことを考えすぎた僕は、人と関わりたいが仕事に行きたくないと思っている。これは、自分の中の自分は人のために何かしたいと思っていても、自分の中の他人は自分のために生きさせろと言ってくる。この葛藤から、仕事に行きたくない、という考えが出てくる。
こう考えると、自分の中に他人がいるのだと思える。それが解離性同一性障害も不思議なことではないように思える。少し親近感を感じるかもしれない。
話はまた脱線するが、人類学の本を読んでいてハッとしたことがある。その本に書かれていたことは、もともと人間と動物の境界はなく、今でも狩りのために動物になりきって動物を獲る人たちがいるということだ。その人たちは、自分が動物になりきってしまい、人に帰ってこれなくなった人もいる。未開の人は人間と動物は同じ生き物として同等に扱っていた。文明が発達して、生き物という言葉だけでなく、そこから人間や動物と分類分けがなされていった。もはや人間(ヒト)と人間もしくは神(動物)だったのかもしれない。
これは当たり前のことだけど改めて気付かされた。動物も元々は他人だったのかもしれない。
現実世界の他人ともコミュニケーションを取るのは難しいのに、自分の中の他人ともコミュニケーションを取らないといけない。僕たちは日々生活していて、知らず知らずのうちに高度なことをしているのだ。そう思うと、調子が悪くなって当然かもしれないなとこれを書きながら著者は思っていた。
自分がしんどくなった時に友達に相談するもよしだが、たまには自分と対話するのもいいかもしれない。一人になって目を瞑ってしんどい気持ちや感覚に焦点を当てながら、心の中でそのしんどい自分に声をかけてみるのだ。しんどい自分の声を拾い上げると帰ってくれば、それは自分と対話しているのかもしれない。そこから自分の中でスッキリする感覚を確かめて対話するのだ。
あまりにもしんどい場合はやめた方がいい。その時はゆっくり休んだり、人に話を聞いてもらいながらでもそれはできるので、無理はしないことだ。自分に合った方法を探すことが大事なように思う。
こんなことを書いて自分の思考を整理してスッキリするも、まだ自分の中にいる他人と話し合い中な著者なのであった。